英一蝶(はなぶさいっちょう)物語

恩師 S先生から「英一蝶」のレポートを 頂いたのは25年程前。

郷土の偉人が 亀山市本町で少年時代を過ごしたことや 英一蝶の作品が、江戸時代の風俗画の浮世絵や与謝野蕪村と共に 我が国の代表的な絵画の世界の一画を占めていたと言う史実は 特筆すべきことです。

 

「石川昌勝」が亀山の殿様として移封されて来た時、「多賀白庵」が侍医として随ってきました。慶安4年(1651)のことです。

多賀白庵の子供「猪三郎」が後の「英一蝶」(1652~1724)。

猪三郎少年は 医学より絵を描くことの方が好きで、藩の家老は 江戸に出て

絵の修行を勧めました。15歳で上京して、狩野探幽の弟安信に入門。

しかし、創造性のないマンネリ化した狩野派の画壇に飽きて、新分野の風俗画の世界に進みました。例えば、「市中の飴売り」「丁稚の口論」「雨宿り狼狽」等

ユーモラスで機微に富んだ絵を多く残しました。

英一蝶(讃には「藤井麻呂書」とある)

の作品「布晒舞図」(ぬのざらしまいず)

をテレビの画面から撮影

 

上の画像から模写したもの

三宅島で描いたもの。島で描いた中には 「英一蝶画」はありませんから 私の間違い。

雅号は安雄・多賀朝湖・藤井麻呂・北窓翁など数え切れないほどの別号を持っていました。

 

 

俳諧の世界にも興味を持ち、芭蕉の門下に入りました。曉運堂・和央などの俳名で芭蕉の高弟・榎本(後の宝井)其角と深い友情で結ばれ、多くの俳句の交歓もしています。

自由奔放に 江戸の空気を満喫したようですが、大名たちを誘惑して吉原で豪遊したり、五代将軍綱吉の遊蕩の情景を「朝妻船」に描いたのが、見咎められて

三宅島に流されました。元禄11年(1698)47歳の時です。

罪人とは言え、絵具の持ち込みは許されましたから、精力的に描いて江戸に送って換金、母の暮らしを助けました。その中の一つが上の作品です。遊里で遊んだ体験を描いたようです。

 

綱吉の死によって大赦、12年が経っていました。江戸に戻って母の姓「花房」から「英一蝶」と名乗りました。73歳までの晩年は 狩野派の画技を基本に

自分の開拓した技と人生体験を 盛り込んで、かなりの注文があったそうです。

豪商・紀伊国屋文左衛門らと花街で遊ぶ有名人にもなっていました。

私は表現者が 配流生活にもめげず、豪遊しても絵に狂いのないのが驚きです。

それは性格が 豪放磊落で洒樂、スケールの大きい人物だったからでしょう。

 

  2016年9月22日(木) 秋分 旧暦 8月22日 NO70