忘れ得ぬ書家

9・10月号の「墨」NO248号の片隅に「村上翠亭先生」の上の作品が

紹介されていました。栗本高行さんが、少し難解な評論ながら、取り上げてくださったのです。1967年、毎日書道展東京会場で この作品を見たとき、大きな衝撃を受けました。それから、この作品は私の近代詩文作りの聖典になりました。

しかし、私の周囲では余り話題になりませんでした。その後、「読める書」の創作運動が提唱されましたが、盛り上がりませんでした。根本的に翠亭先生の考え方のレベルが高く、当時の書壇がついていけなかったのだと思います。

翠亭先生は1928年生まれの90歳。常に王道を歩まれた書家だと思います。今もお元気に現役で活躍されておられるそうですが、私も先生とは 少なからず因縁があります。

1962年、書道のことも書壇のことも 全く知らない22歳の青年が、吹田市泉町の先生のご自宅に アポなしで訪ねたのです。先生は 諭すように静かに「今年 日展特選を取った漢字の栗原蘆水先生を紹介しよう」と紹介文を書いて下さいました。

それから10年後、私は栗原先生の吹田高城町の書斎でお目にかかったのです。

「九輪社展」作品の下見の場でした。翠亭先生と蘆水先生は三つ違い、出品作を

見せあう姿は、厳しくもあり、羨ましいものでした。銅板を腐食させて書いた

エッチングなどの作品は「こんなことも出来るのか」と驚いたものです。

 

翠亭先生が1972年(45歳)に書壇を離れられるまで、日展特選を受賞した9人の先生方と共に「九輪社展」を企画し第1回を大阪・天満の松坂屋で開催。

切磋琢磨する作品展は意欲的で、4回まで続きましたが、翠亭先生の書壇離脱で

突然終わりました。

本物志向の先生が 書壇の組織運営に 重きを置く仲間たちと袂を別ったのだと思います。

私も夜を徹して書を語った友人がいましたが、徐々に書道の正道から外れていく

友人の姿勢に失望した経験があります。真面目に書を求める人間には 現代は

生きにくい時代です。

 

  2017年9月23日(土)秋分 旧暦 8月4日  NO94