
田中為信先生を語るのに 昭和47年(1972年)11月は忘れることが出来ません。先生が11月23日に亡くなられたのです。同じ年の日展に始めて入選したのですが、11月1日から始まった同展に 先生は東京・上野の会場まで行かれ、佐野益子先生の自宅に寄られて「保利君の作品を見てきたよ」と報告。その半年後に亡くなられたのですから、衝撃的でした。
田中為信先生(1907~1972)は東京・芸術大学(現)を出られた一流の美術家なのに 全校150人程の小さな中学校の分校に 赴任されてこられたのは 生まれ故郷で病気療養するためでした。先生48歳頃、私が中学3年生の時です。
それまで絵画に縁のなかった私が 先生の指導で「わら草履・点描画」を描き、掲示板に貼られたのです。少年の心に「美の炎」が点火された瞬間です。
それ以上の技法を 学んだわけでもないのに、炎は燃え続け 私の心の核に刻みこまれて 今の書に表れています。
先生は 美術学校を卒業後、兵庫、大阪の学校を経て 終戦を挟んで 三重県に戻られました。1954年に私達の先生になられたのです。私の兄弟達は美術だけでなく 数学も教わったようで、指導の仕方には定評がありました。田舎の学校なのに、優秀な教え子が巣立っていきました。
1963年から亡くなられた1972年までは 高田高校の美術教師として、多くの美術関係の人材を 社会に送り出しています。
ホームページ「二十四節気・つれづれなるままに」を見て下さって有難うございました。ちょうど100回になります。毎回、何を対象に書くかで苦労しますが、基本的には 孫が成長した時、私の考えが伝わればいいと思っています。
皆様のご多幸をお祈りして 今年最後のご挨拶といたします。
2017年12月22日(金) 冬至 旧暦 11月5日 NO100
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