榮樂徹(守拙)さんと絵手紙交換

新しい「令和時代」の始まりです。

10年前の5月18日、榮樂徹(守拙)さんが亡くなりました。享年66歳、若すぎる寿命です。

栄楽さんには私は「育てられた」と言うのが印象です。

出会いは奇妙なものでした。

榮樂夫人とは栗原先生の書生を共にしていましたから、結婚されてからも四季折々の文通は続いていました。そこに闖入してきたのが夫君の徹さん。奥さんにに代わって文通相手は徹さんになりました。それが彼が亡くなるまで10年以上

「守拙&溪水」のバトルが続いたのですから不思議です。

最初は筆文字だけの葉書だったのが、だんだん発展して絵入りになりました。初期は日常的な話題でしたが、難しいテーマや色っぽいやり取りもあります。

始めてから一年分の往復書簡を私の社中展「手紙展」に出品したのが縁で榮樂さんが編集して出版したのが「ふたりの書画ない葉書」(1999年10月発行)です。

これが「サライ」(2000年4月20日発行)に取り上げられて驚きました。

長い連休の間、徹さんからの手紙を読み返しました。すっかり忘れていたのですが、

「貴兄の書は嫌い、早く目を覚ましてほしい。貴兄の野放図さがない。大嫌いだ」

封書の表書きには住所の横に「首をみじかくして待つ」とイラストが添えてある。思えば公募展に出品するようなものはすべてこの調子で拒否されました。

私も自覚していましたから「榮樂さんの言う通り!」と親に叱られた子供のように「本当の書とは?」と今日まで問い続けることになります。

その頃に書いた作品には「守拙風」が色濃く残っています。

例えば、右の作品は岡本太郎の言葉を 稲を刈った後に出てくる二番穂(ひつじ)で書いたものです。

 

定年まで「滋賀県立近代美術館」の館長をされていましたが、館長室には館内のプラタナスの落ち葉が額に入れて飾ってありました。拙宅には度々こられましたが、私への手土産は大阪の銘酒。帰る頃にはその酒瓶はすっかり空になっていました。酒豪でした。お孫さんや奥さんをこよなく愛し、又友人の訃報に心底 参っていた様子が手紙に見られます。家族や友達を大切にする鹿児島男児でした。

 

  2019年(令和元年)5月6日(月)立夏 旧暦4月2日  NO133