
1976年に城山三郎著「雄気堂々」が出版されて「死ぬか生きるか、命のやり取りをする激しい青年期」の渋沢の活躍に胸を躍らせたものです。
武蔵の国血洗島(最寄駅高崎線深谷駅)の藍葉を作る豪農の長男として生まれ、19歳で尾高千代と結婚しますが、千代の兄弟達と組んで 幕末の騒乱に巻き込まれていきます。一橋慶喜の用人平岡円四郎に見込まれ、慶喜に仕える事になりましたが、それが後の渋沢の人生の大きな礎になりました。

渋沢28歳の時、慶喜の弟・清水昭武の随員28人の一人として パリ万国博覧会に参加するためパリへ。フランスでは株式会社制度を学んで
明治元年(1868)に帰国します。その2年余りの間に日本は鳥羽伏見の戦い、大政奉還など激変の時代の中にありました。帰国後の渋沢はフランスで学んだ知識をフルに活用して、明治期に481社もの企業を設立し、令和時代の今も185社が存続していると言います。

「一橋大学」や「同志社」などの設立にも協力しましたが、福祉の世界では1790年頃、松平定信の施策「寛政の改革」の一つ「七分積金」の運用を頼まれて「東京養育院」を創設します。当時、都民の6割が貧民でしたが「仁義道徳と生産殖利とは共に進むべきもの」「貧富の差を縮めるにはどうしたらいいのか」「救貧だけでなく、防貧のために職業訓練をする」。
社会福祉の創始者の理念は 今でも新しく、むしろ現代人が学ばなくてはならないものです。
亡くなった時、天皇の弔意あり、元養育院で育った経営者が 渋沢邸の庭で夜通し正座して通夜したと言うエピソードあり、多くの市民各層に惜しまれて92歳の生涯を閉じました。
2019年(令和元年)9月23日(月)秋分 旧暦8月25日 NO142
コメントをお書きください