書道を始めて57年目に入ります。当時の私の実力は 箸にも棒にもかからぬ拙劣なレベル。周りの先輩や同輩は 専門の教育を収め、立派な実績をあげていました。そんな時、私の考えたことは「ゆっくり徹底的に書の本髄を極めよう」と言う居直りです。それから絵画、陶器、書などのジャンルを問わず、休日の度に美術館や展覧会巡りをして、少しずつ目を肥やしていきました。
そこで出会ったのが「井上有一」です。「貧」「愚徹」「心」などの大作品は他では見られない迫力がありました。

井上有一(1916~1985)は古道具店を営む家の末っ子長男として生まれました。幼い時から絵を描くことがすきでしたが、師範学校を出て、「横川尋常小学校」へ赴任しました。同僚の教師の縁で「上田桑鳩」に師事します。

昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で10万人の犠牲が出ましたが、その中に自分の教え子6人が含まれていました。「噫(ああ)横川国民学校」は空襲33年後にビエンナーレ展(1957年・41歳)に出品して、ピカソの「ゲルニカ」同様、理解され、認められました。
1952年(36歳)森田子龍・江口草玄らと「墨人会」を結成。皆が大筆を購入して揮毫。「書をあらゆる因襲から解放する」と気勢あげる場面は痛快です。
今年も終わりです。「平成」から「令和」に変わった節目の年でしたが、私自身も大病を得て、生き方を見直す機会になりました。
一年間、ホームページ「二十四節気つれづれなるままに」を読んで下さって有難うございました。来る新年が充実した年でありますように祈ります。
2019年(令和元年)12月22日(日)冬至 旧暦11月26日NO147
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カフェオレ (水曜日, 11 8月 2021 17:05)
ああ横川国民学校の字を
見た時、なにかオドロオドロしい
ものを感じました
ピカソの「ゲルニカ」に似ている
そう思ったら、他の人も
そう感じたらしく
物を見る目のない私でも
何か思うものがあります
もう1つ、心に残る字は
野口英世の母が野口英世に
あてた手紙です
宮沢賢治の雨にも負けずの
字も
書道は、小中と高校の選択科目
やった程度で、前衛は何を
書いてあるのか、もし
その字を見て、何か思うものが
あるのか
生きていると、よくわからなくなることがあります
井上有一を調べていて
こちらのホームページみました
生き方を見直す
どんな生き方が良かったのか
未だに、わかりません
松井先生は、どう考えましたか?
身体、ムリしないよう
時間は短い、その間
どうしようと思ったのでしょうか?