「我感じる、故に我あり」

今年の冬は5度の積雪があり、今日もチラチラと雪が舞って、暦通りの寒い朝です。

正月が過ぎた冬晴れの日、幼子に付き合って凧揚げをしました。風が凪いでたぐるその時、子供時代の感覚が蘇りました。「何かに似ている」と思ったら それは筆使いです。石川九楊先生(1945~)の提唱する「筆触」と同じだと思うのですが、口では説明できないあの感覚です。

他人の筆使いを観察していると、カタチは整っていても 筆圧の厚みが感じられなかったり、リズムが単調だったりします。

「絵にも描けない美しさ」や「言葉で言えない」など、相手に伝えるのが難しいことが 職人の世界や芸術の分野には多々あります。物づくりの世界で昔修行した人から「何も教えてくれなかった」エピソードをよく聞きます。私もそうでした。途中からおっぽり出すような感じで自力で書作するように命ぜられました。

今思えば師匠の愛情だったのです。

自分の感じている事を他人に説明する時、私は今まで「本能的に言うと」と前置きして頭の中のイメージを言葉にしたものですが、そういう学問がある事を今月号の「文藝春秋」で知りました。「ポストコロナの生命観」と題して山極壽一先生と福岡伸一先生の対談の中に「文明はロゴス(ギリシャ語logos論理)によって発展してきたが、この度のコロナ禍で証明されたように 行き詰まりを見せた。これからはピュシス(ギリシャ語physis自然)に立ち戻れ」と言う大意だと読み取りました。

そこで冒頭に戻るのですが、凧揚げ・コマ回し・木登りなど子供の時の遊びの

感覚は、何年たっても体が覚えています。それが大人になって 仕事にも物の発想にも役にたっているのです。

アメリカの生物学者レィチェル・カーソンは「自然の神秘さを感じることこそ

人の一生を支えていくもの」と言いました。

私は美しい物に感動し、何故だろうと 好奇心を失わない生活をしていきたいと思います。

 

 2022年(令和4年)1月20日(木)大寒 旧暦12月8日 NO197