
今、世の中では暗いニュースが連続して起きています。「ロシアのウクライナ侵攻」「新型コロナウイルスの感染」「政治の貧困」「差別意識の蔓延」など、我々ではどうすることもできない事ばかりですが、救世主が現れないものかと思います。
100年も前に後藤新平(1857~1929)と言うダイナミックに人生を生きた医師・政治家がおりました。東北水沢藩の藩士の子として生まれましたが、大叔父に高野長英(1804~1850)がいましたから、謀反人の子として蔑まれ、人生の出発は悲惨なものでした。
農民として明治を迎え、医師になり、愛知県の病院長を経て、1882年(明治15年)板垣退助の命を助けた事がきっかけで中央に進出。1894年(明治27年)日清戦争に勝って凱旋した兵士23万人が伝染病コレラに罹っていたのを、当時の陸軍次官・児玉源太郎(1852~1906)に請われて陸軍検疫部事務管長として、検疫所を作って水際で食い止めました。
検疫所は山口県彦島、大阪市桜島、広島市似島(にのしま)に設置し、似島にはその遺構が今も残っているそうです。

児玉・後藤コンビは 伊藤博文が内閣総理大臣に就任した1898年に児玉源太郎を「台湾総督」に任命。後藤新平も「民政長官に大抜擢されて、台湾の民政を任されました。
当時の台湾は土匪が跋扈して治安が悪化していましたが、この児玉・後藤コンビは現地の文化慣習を調査して、古くからある自治組織を法律で制度化し、土匪を自治の力で制圧、阿片も吸飲者を少なくして治安の回復につとめました。
台湾を軍事力で治めるのでなく、例えば原住民の実態を人類学者・伊能嘉矩と協力して調査、原住民を山の保護者と称え、森林鉄道を作り林業を振興させました。アメリカにいた新進の農学博士・新渡戸稲造を招いて、土質を調査、砂糖きびの栽培を遂行、台湾縦貫鉄道を使って運搬、日本の利益だけでなく、台湾の利益にも寄与したのです。
後藤の差別意識を否定する姿勢は後、満鉄総裁を引き受けた時も続き、満鉄沿線に28ケ所の病院を建設して、民族分け隔てなく利用できるようにしました。
日本に帰って外務大臣・逓信大臣や鉄道院総裁や東京市長を勤めますが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の復興を渋沢栄一(1840~1931)の協力を仰いで成し遂げます。東京市街地計画は事前に建てていましたから、すぐ実行に移されました。
東京市長時代1922年ソビエト社会主義共和国連邦が成立、周囲の反対をおして、ソ連との国交回復に乗り出します。後藤が提唱した「西欧が中心の中で 日本はどういう立ち位置で行くべきか」。この問題は古くて新しい考え方です。
2022年(令和4年)4月20日(水)穀雨 旧暦3月20日 NO202
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