諦観(たいかん)の境地

2013年4月、オスのコーギー犬が西の山に棄てられ(推定年齢4歳)我が家に居づいて10年目に息を引き取りました。

我が家の一員になるまでには 紆余曲折があって、亀山警察署に拾得物の申請、近隣県と市に捜索依頼をした後、我が家で保管する形で落ち着くことになりました。

棄てられた後遺症で 車に乗せると大暴れをするし、我々の顔が見える所に置かないと、淋しがりました。

「松井家に福をもたらす」と言う村人の話で「フク」と名づけましたが、その名の通り色々な嬉しいことを運んでくれました。朝夕の散歩は私の担当になりましたが、2018年になると急に歩けなくなり、散歩の途中で何度も休むし、行きたくない素振りを見せるようになりました。孟夏の影響でしょうか、体力は目に見えるように弱りました。

今年の4月中旬頃からは「折れ線グラフの右肩下がり」そのままの流れで息を引き取りました。私達にはどうすることも出来ず「タイカン、タイカン・・・・」と経を唱えるように、見守るしか出来ませんでした。

「諦観」と言う言葉に出会ったのは 1999年、私に癌が見つかって、2週間の検査入院の病院のベッドの上でした。

    広辞苑では「ていかん」=入念に見る事。

         「たいかん」=(仏教用語)悟って諦める事。

60歳になったばかりで それまで病気らしい病気とは無縁でしたから、宣告された時の心の動揺は大きかった。家庭の事、仕事の事を考えて平気ではいられませんでした。悩みから解放されるには 自分の身に起きていることを洗い出し、改善できる点、そのまま受け入れなければならない点を 整理しなければならない。病院の階段の昇り降りは 体力の低下を防ぐ目的で日課にし、体重、体温、血圧などの記録は 言わば私の体調の「見える化」、それから20年習慣にしています。

その上でどうしようもない事がある。それは受け入れて覚悟する。そこまでに至るまでの苦悩はありましたが、その後は心の平穏が保たれています。

精神的に安定すれば、免疫力にもなる。そのことを仏教辞典には「悩みから解放されるには、本質をはっきり見極めた上で諦め、超然とすること」と難しく解説しています。

「悟った上で諦める」ことが出来れば、他へ思い巡らす余裕が出来ます。

 

 

 2022年(令和4年)6月21日(火)夏至 旧暦5月23日 NO206