
自宅の1キロ西に観光地「石水溪」があります。
昭和29年(1954)に1町5ケ村(亀山、野登
川崎、昼生、白川、神辺)が合併して亀山市が誕生しました。今まで「役場」と呼んでいた役所が「支所」になり、人員も大幅に削減されて、6人規模になり、私は中学校を卒業して給仕に採用されました。
野登は北西に膨大な山地があり、風光明媚が自慢の土地柄でしたから、当時の自治会長(区長とも言う)さんは故郷を振興させるのには観光開発だと
元村長の「山木六郎さんを称える」顕彰碑建立を計画しました。
野登6地区の区長は小森市橋(坂本)上田寛(池山)小林房吉(安楽)原田中(原尾)伊東善吉(平尾)伊達次治(辺法寺)の各氏は連日会議を開いて、計画を練り上げていきます。定時制高校2年生の16歳の松井少年は 大人達の事業する過程を傍で見ていて 心に思うものがありました。
顕彰碑揮毫は三重県知事田中覚さん、撰文は初代亀山市長服部平義さん。「85歳の山木六郎氏は村議、村長を勤められ、安楽公園を石水溪と命名して、観光行政に寄与された」と言う旨の銘文が刻されています。
1957年(昭和32年)7月21日(日)晴れ、この日除幕式と石水溪祭りが大々的に行われました。私はその日、役所で留守番をしていたのですが、電話の取次ぎで現地に行った時の状景が日記に記されています。「現地は大賑わい、碑の前に作られた舞台で石水溪音頭を躍っている」。第1回石水溪祭りは 盛大に成功裏に行われたのでした。その後も石水溪祭りは続いたのですが、1959年以降は大阪暮らしでしたから、記録がありません。
ところで、石水溪の観光地は中途半端でした。山のあちこちに作られたヒュッテや販売店は65年後の今は廃墟化して、残骸を残すのみです。
何故、観光地として発展しなかったのかと村の古老に聞きました。「山が浅くて水が少ないからだ」と教えてくれました。それでも冬を除いて「研修センター」やバンガローの利用者は予約でいっぱいです。
私の雅号を付ける時、先生は「松井の故郷に名所はないのか」「実家の西に石水溪と言う観光地があります」と答えたら「後ろから読んで<溪水>にせよ」と決められました。決められ方が乱暴でしたから、始め嫌だったのですが、今は身体の一部になっています。
2022年(令和4年)12月7日(水)大雪 旧暦11月14日 NO217
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