2016年
10月
08日
土
穭(ひつじ)筆で書きました

8月下旬に刈り取った二番穂も こんなに伸びました。
俳句では二番穂のことを「穭」(ひつじ)と言うそうですが、お百姓さんが田んぼを鋤いてしまうと土の中に埋もれてしまいますから、その前に
ハサミで少しだけ失敬しました。
2016年
9月
22日
木
英一蝶(はなぶさいっちょう)物語
恩師 S先生から「英一蝶」のレポートを 頂いたのは25年程前。
郷土の偉人が 亀山市本町で少年時代を過ごしたことや 英一蝶の作品が、江戸時代の風俗画の浮世絵や与謝野蕪村と共に 我が国の代表的な絵画の世界の一画を占めていたと言う史実は 特筆すべきことです。
「石川昌勝」が亀山の殿様として移封されて来た時、「多賀白庵」が侍医として随ってきました。慶安4年(1651)のことです。
多賀白庵の子供「猪三郎」が後の「英一蝶」(1652~1724)。
猪三郎少年は 医学より絵を描くことの方が好きで、藩の家老は 江戸に出て
絵の修行を勧めました。15歳で上京して、狩野探幽の弟安信に入門。
しかし、創造性のないマンネリ化した狩野派の画壇に飽きて、新分野の風俗画の世界に進みました。例えば、「市中の飴売り」「丁稚の口論」「雨宿り狼狽」等
ユーモラスで機微に富んだ絵を多く残しました。
2016年
9月
08日
木
會津八一は新聞の活字から書を学んだ

会津八一(1881~1956)は
私の好きな書人です。
書は専門でなく、早稲田大学で英語を教え、宮中歌会始で召人を勤めた程の歌人でもありました。
声が大きくエネルギッシュな巨漢だったようです。
西川寧先生が因襲的な書壇に 風穴を開けようと、会津八一を 日展の審査員に推薦しましたが、尾上柴舟氏の強烈な反対で、「幻の審査員」に終わりました。その時、出品しようと思っていた作品が掲出の「林下十年の夢 湖辺一笑新た」(1948作)です。のびやかで明るく とらわれがない。
もし、会津八一が日展の審査員を勤めていたら、書壇の現状はだいぶ変わっていたでしょう。
2016年
8月
07日
日
TへのNECROLOGY(追悼文)
大好きだった従兄の T が死んだ。83歳と4ケ月。私は幼少期、理由はわからないが 伯父さんの家で育った。私専用の箱膳まであった。8人の従兄弟の中で大事にされて育ったのだ。優しい姉さんもいたが、とりわけ、T は私を可愛がってくれた。それは終生続き、齢をとって叱ってくれる人が いなくなると、困るので 私の怖い人の役目を引き受けてくれたのである。つまり、私が傲慢にならぬよう苦言を呈してくれた。
齢は八つ離れているから、五六歳の頃から 金魚の糞のように付きまとい、喧嘩の強い兄ちゃんが誇らしかった。村人は鈴鹿市にホンダ技研が進出して来るまで
百姓と炭焼きが正業で、10キロ離れた県境まで往復5時間を 盆と正月以外、
毎日 重い荷物を持って歩いて通った。後年「炭焼き仕事の事を考えたら、会社の仕事は 遊んでいるようなものだ。こんな高給を貰っていいのだろうか」と述懐したのを 聞いたことがある。
T は25年前に腎臓がんの大手術をし、4年前にまた、敗血症で危篤。亡くなる半月前まで 入退院を繰り返す合間に畑仕事をしたり、電動車で散歩していた。並みの生命力ではなかった。
T は裏表なく良く働いた。告別式で喪主を勤めた長男は「父は子煩悩でした。5人の孫に対しても孫煩悩でした」と言う通り、車椅子にのって、孫娘のピアノ発表会に上京したり、孫息子の大学を見学するため神戸に行ったり その行動力に驚いた。最晩年の2年間は 奥さんに辛く当たったが、8人の兄弟の4番目と言うのは親の愛情が届かない位置、お母さんの代わりを奥さんに 求めていたのだろうか。「蓋棺事定」(棺を蓋いて事 定まる)と言う言葉があるが、T が何を残したかは お孫さんたちを見たら良くわかる。
2016年
7月
22日
金
私の防暑法

今年も猛暑が続きます。テレビは熱中症の危険を連日報じています。
村の出会い仕事で 村人は「我々は熱中症には
縁がない」と言う。それもそのはず、彼らは
4月下旬から田んぼに出て、真っ黒になって
働いているのです。これを「暑熱順化」(暑い季節への変化に応じて自らをうまく変えること)と言うことらしい。
私もこの暑さに負けられないので、いくつかの「防暑法」を考えました。
。
2016年
1月
21日
木
才能は待ってやれば開くー小3デカ書道ー

1月13日(水)恒例の「デカ書道」の授業に
地元小学校まで出向きました。
「デカ書道」と言うのは 初期の児童がベニヤ板
(180×90㎝)の大きさに書いた時、誰言うこともなく「でっかいなあ」「デカ書道」と呼ぶようになったのです。
それ以後、卒業式の来賓の肩書も 普段子供からも「デカ書道の溪水さん」と呼ばれています。